今回は、前回ご紹介した茨木のり子さんの、初の本格的評伝「清冽ー詩人茨木のり子の肖像」(後藤正治、中央公論新社、中公文庫)について書きたいと思います。

茨木さんの家族や交友のあった詩人たち、出版社の人間など多くを取材し茨木さんの生涯を追ったこの作品は、私の愛読書の一つです。

敬愛する茨木さんについて、敬愛する後藤さんが書き、さらには敬愛する藤沢周平さんについても触れられているからです。ちなみに後藤さんはノンフィクション作家で、「遠いリング」や「リターンマッチ」などスポーツに関する作品も多く書かれている方です。

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藤沢周平さんについては「蝉しぐれ」など映画になった作品も多く、読んだことのある方も多いでしょう。なぜ、茨木さんの評伝に藤沢さんが出てくるのか。それは二人には「庄内」という共通点があるからです。

藤沢さんは山形県の庄内地方、現在の鶴岡市出身。そして茨木さんの母親、ご主人も同じく現・鶴岡市出身なのです。

本書は13章で構成されていますが、第三章「母の家」では、後藤さんが庄内を訪れ、「取材」したことがつづられています👇

その中で、後藤さんは二人の共通点についてこう書いています。

「庄内地方は広い。北の港町・酒田が商人気質の町であるのに対し、城下町・鶴岡人の気質は控え目な謙譲の精神であるという。

それは藤沢の小説世界の地色ともなって流れているが、控え目だけが庄内気質ではない。冬場、吹きつける雪の中、あえて顔をそむけずに歩き進むのが庄内人ーという言葉を古老から耳にした。

作家と詩人。棲んだ世界は隔たり、作風もテーマ性も異にするが、庄内平野を歩きつつ、通底する精神のいぶきのようなものを感じたものである。それは、時勢におもねることなき姿勢、寡黙ななかに秘めた芯の強さ、単独の表現者としての立つ潔さ、といった人としての原資である」

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これを読んで、同じ日本海側で雪国、隣県に住む私としても、何かうれしくなりました。ちなみに茨木さんは、晩年は藤沢さんのファンであったといいます。

なお、以前に藤沢さんが庄内への思いを書いた随筆を紹介しています(#68 うつくしい日本海の落日 「ふるさとへ廻る六部は」(藤沢周平) | アルビレックス新潟と本のある幸せ (husen-alb.com))。よろしければご覧ください。

さて、後藤さんがなぜ茨木さんの評伝を書くことになったのか。それは第一章の「倚りかからず」に書かれています👇

「倚りかからず」は前回ご紹介しましたが、茨木さんの生前の最後の詩集「倚りかからず」の表題作で、以下のように始まります

もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない/もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない/もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない/もはや/いかなる権威にも倚りかかりたくはない

この詩について後藤さんは、次のように評しています。

「見渡して、信に足るとされた思想も宗教も学問も色褪せてしまったとき、詰まるところ、寄るべきは自分自身にあるもの以外にない。『倚りかからず』という思いは、世の底流に流れる時代的な空気であった。

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詩集をベストセラーに押し上げた背景のひとつであるが、もとよりそれは茨木のり子という詩人の力量であり、言葉が人々の心に深く食い込むものを宿していたが故である。私もまた、『倚りかからず』によって彼女の読者となった。」

この詩集の発刊の6年後の2006年、茨木さんは79歳で亡くなります。後藤さんは「追悼に類する文」を書く機会があったことなどから、このとき「彼女の本当の読者となった」そうです。

それ以降、後藤さんはしばしば、「外出時には茨木の詩集を鞄に入れ、あるいは詩集を手に近所の喫茶店に出向くようになった」といいます。

詩集を手にして「ほとんど暗誦している詩句に目を走らせ、それまで素通りしていた言葉に立ち止まる。己をふと鼓舞してくれたり、あるいは逆にふがいなさやいたらなさを知らしめたりする

さらには、「覚えるものは時々によってさまざまであるが、澄んだ流水に接して身を洗われるごとき感触は変わらない。あらゆる権威が地に墜ちた現代、それは言葉が滅んだ時代といってもいいのであろうが、なお発光し続ける言葉がここにある」と書いています。

料理も得意だったという茨木さん。本書には写真も多く載っています。

「倚りかからず」については前回、山根基世さんの解説を少しだけ紹介しました。後藤さんは本書で、山根さんと茨木さんのトークにも触れています。

「茨木の詩が他者を励ます作用をもつという山根の質問に対してはこう応じている。

[私自身は人を励ますとか、そんなおこがましい気持で詩を書いたことは一度もありません。自分を強い人間と思ったことも一度もない。むしろ弱い、駄目な奴っていう思いがいつもありましてね、信じられないかもしれませんが(笑)。それで自分を刺激したり鼓舞する意味で詩を書いてきたところがある。それが間接的に人を励ますことになっているのかもしれません。とにかく私自身は強くはない。弱い人間です。……おや、きょとんとされていますね(笑)]

これを受け、後藤さんは書きます。
「強さと弱さ―。歳月のなか、それは折々、まだら模様に顔を出す、ともに茨木のもつ貌だった」。また別の個所では次のように表現しています。

「厳しさと美徳を他人に強いるのではなく、自分に向けて全うしたのが茨木のり子さんという人だった」

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