たれも憂き世をや
〈だれだって皆、つらい思いを抱えているのですよ〉
どんな人もみんな、種類はさまざまだが、なんらかの悲しみ、苦しみを、それぞれの胸に持って生きている。これが人生の現実。しかも、今の時代こそ、まさにそうではないか、と思いは広がっていく。たれも憂き世をや。心に染みわたる言葉だ。

これは、清川妙さんの「心ときめきするもの」(新日本出版社)から引きました。
「たれも憂き世をや」は「和泉式部日記」の中の言葉だそうです。

これに続いて清川さんは、こう書きます。
「自分に言い聞かせれば、励ましとも戒めともなる。みんなつらいのだ。くじけないで、ともかくも前を向いて、一歩ずつ丁寧に歩いていこう、と/また、人に聴かせる言葉とすれば、『あなたは、独りじゃありませんよ』という深い理解となる。言葉を芯にして、共感につながれた連帯が生まれる/古典の中の何気ない言葉も、時代を超えて、今を生きる心の手当てとなる。いい言葉をもらった」

清川さんについては、#277で「つらい時、いつも古典に救われた」をご紹介しました(#277 心に寄り添う言葉たち 「つらい時、いつも古典に救われた」(清川妙) | アルビレックス新潟と本のある幸せ (husen-alb.com))。この「心ときめきするもの」には、「学び直しの古典」という副題がついています。続編の「心の色ことばの光」(新日本出版社)もあります。

この「学び直しの古典」という言葉は、「学校時代に習った古典を、おとなになってもう一度学び直してみようという意味ですが、もうひとつ、書き手の私自身が学び直し、新しい発見をして感動し、それを伝えるために書いたという意味もこもって」いるそうです。

清川さんは2014年に93歳で亡くなられましたが、「心の色 ことばの光」はその2年前に出版されています。90歳をすぎてもなお、日々学び、学び直しておられた姿に、叱咤激励されます。「物事を始めるのに遅すぎるということはない。始めるか、始めないかだ」といわれます。私も、焦ることなく、色んなことを学び、学び直したいと思っています。

「心ときめきするもの」の「まえがきで」で、清川さんは古典について次のように書いています。
古典は、けっしてかびくさく縁遠いものではありません。その中には人間の生き方のあらゆる姿、あらゆる喜怒哀楽がつまっています。古典の登場人物たちの心は、現代を生きる私たちの心の中にも脈々と流れ込んでいます。その言葉は私たちの心にくぐり入り、魂を揺り動かす力を持っているのです

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その上で「この本が読者の方にとって、生き方のヒントになり、励ましにも、支えにも、希望の道しるべにもなれば、作者の私としては、わが意を得たりと、大変うれしいことなのです」と綴っています。

最後に、同書から「無常の覚悟、存命の喜びー『徒然草』兼好法師の死生観」の項の一部を引用して終わりにします。

されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや
〈だから、人が死を憎むなら、生きていることを愛さなければならない。生きているということの喜びを、日々、楽しまないでおられようか〉

「楽しまざらんや」という反語法を使い、楽しまないなんてことがあってよいだろうか、絶対に楽しむべきだ、という念を押した語調。そして、このたった二行の言葉の中に、「愛す」「喜ぶ」「楽しむ」という三つの前向きの言葉がはめこまれていることに、注目したい

「いのちを生きているからには、前向きに生きよう」という意志を彫りつけた様な言葉だ
今から六百年以上も前に生きた兼好の思いが、今の私たちの心にぴったりと寄り添ってくるのは、驚くばかりである

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