冤罪事件の真実を明かす

今回は、木村元彦さんの「争うは本意ならねど」(集英社インターナショナル、集英社文庫)を取り上げます。前回#18の「13坪の本屋の奇跡」(ころから)に続き、木村さんの著書のご紹介です。

この本は、元J1川崎の我那覇和樹選手が、ドーピングの冤罪に巻き込まれてから汚名を雪ぐまでの闘いを記録した作品です。Jリーグ関係者やチームドクター、支援に立ち上がった沖縄の仲間たちやサポーターなど多くの人たちを丹念に取材しています。

副題は「ドーピング冤罪を晴らした我那覇和樹と彼を支えた人々の美(ちゅ)らゴール」。集英社文庫版も出ていて、こちらの副題は「日本サッカーを救った我那覇和樹と彼を支えた人々の美らゴール」となっています。

日本社会のひずみ

問題が起きたのは2007年。我那覇選手が日本代表に初選出された翌年のことです。我那覇選手が体調不良になり点滴を受けたのですが、サンケイスポーツの誤報をきっかけにJリーグはいわゆる「にんにく注射」といわれるドーピング違反を行ったと判断し、我那覇選手に6試合の公式戦出場停止処分を課します。

Jリーグのチームドクターたちが「正当な医療行為でありドーピングなどではない」と立ち上がるのですが、「Jリーグはこの問題に正面から向き合おうとせずに、その度に詭弁を膨らませ逃げ続けた」と木村さんは書きます。

最終的に我那覇選手は、スポーツ仲裁裁判所(CAS)で無罪を勝ち取ったにもかかわらず、Jリーグは「CASはドーピング違反の有無に踏み込まなかったと逃げ、1,000万円の制裁金を川崎に返還しなかった」といいます。

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木村さんは2013年2月、新潟市の北書店さんで、えのきどいちろうさんのトークライブを行っています。私も聞きに行ったのですが、木村さんは「我那覇選手は完全潔白なのに、今でも灰色と思っている人が多くいる」と話し、「この問題を掘り起こし、知ってもらいたくてこの本を書き、書くだけでなく伝えている」とおっしゃっていました。

さらに、「Jリーグは引き返す場所がいっぱいあった。そこで謝っておけばよかった」と言っていました。組織や個人のメンツ、学閥、独裁的なリーダーなども描かれます。木村さんは「日本の社会の縮図みたいなものが出ていた」ともいいます。Jリーグという一組織の問題ではなく、日本の社会、個人対組織、そして個人としてどう生きるかを問いかける素晴らしい作品です。ぜひ読んでみてください。

良質なノンフィクション

えのきどいちろうさんのトークライブで木村さんは、「争うは本意ならねど」について裏話を交えながら解説し、えのきどさんが質問や意見をぶつけながら楽しく、面白くリードされていました。北書店さんは超満員の盛況でした。

えのきどさんは、この本について「スポーツノンフィクションではなく、スポーツを題材とした良質なノンフィクション」だとおっしゃっていました。

本には、〝御用記者〟という表現が出てきます。それは、こんな感じです。
「Jリーグに詰めている鬼武番の記者であった。メディアの使命である権力の監視者ではなく、権力の番犬になっている。まるで自分が担当している政治家に肩入れする政治記者のような動きである。間接的な恫喝と言えた

トークイベントの終盤で、えのきどさんが「批判的に読む」ということを強調しながら、メディアリテラシーについて熱く語っておられたのが印象的でした。

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書名の「争うは本意ならねど」についてですが、木村さんは「あとがき」で次のように書いています。

「我那覇は『あの一年がなければ』とは絶対に言わない。自分を誤って(あるいは意図的に)罰した人物のことも一切、責めない。何度も書く。我那覇は勝てると思ったから立ち上がったのではない。自分の名誉のためにだけに立ち上がったのではない。そして、最後の最後まで、争うのは本意ではなかった」

我那覇選手も同書のインタビューで、次のように語っています。

「やっぱり自分だけの問題じゃなかったというのと、今、ここで、僕が立ち上がらないと、また同じようなことを繰り返して、再び違う選手が僕みたいな苦労をすると思ったので、(略)闘おうという気にはなりました」

その上で木村さんは書きます。
「脱稿して改めて思う。我那覇はJリーグと闘ったのではない。Jリーグを救ったのである。それも他の人々を巻き添えにしたくないがために敢えて黙して孤独を抱え込み、たったひとりで何千万円もの私財を投じて」

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   ◇     ◇

最後に、同書の中でとても印象に残った一節があります。本筋の話ではないのですが、紹介させてください。

「山崎は子どもの頃、家族旅行をすると、旅先で『どこから来られたんですか』と聞かれるたびに親が『横浜です』『東京です』と応えるのに違和感を感じていた。

公害とネオンの地域から来たというイメージを避けたかったのかもしれないが、俺らの町はそんなに誇りの持てない町なのだろうか。悶々としていた時期にJリーグができた。

南武線の平間駅でひとり黙々と試合のポスターを張っている天野春果(現フロンターレプロモーション部長)に出会い、『サッカーでこの町に誇りを持たせたい』という言葉に感銘を受けた。
『これだ』と山崎は思った。以来、サポーターとしてクラブを支えてきた

  (山崎とは、山崎真さんというフロンターレのサポーターグループ、川崎華族のリーダー。天野さんの肩書は当時)

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