文章を読んだり、書いたりする際には辞書は欠かせません。その辞書は、一体どんな思いで、どんな風につくられているのでしょうかー。
三浦しをんさんの「舟を編む」(光文社文庫)は、辞書づくりに情熱を燃やす「不器用な人々の思いが胸を打つ」、2012年の本屋大賞受賞作です。
主人公の馬締光也は言葉への鋭いセンスがあり、出版社の営業部から辞書編集部に引き抜かれます。ただ、馬締(まじめ)くんは名前の通り、真面目すぎるほど真面目で、一風変わった人物なのです。
編集部では「大海渡」(だいとかい)という新しい辞書づくりに取り組んでいます。彼を引き抜いた、その道一筋でまもなく定年を迎える荒木公平さんが、「まじめ君。きみの力を『大渡海』に注いでほしい!」と懇願します。すると彼の反応は…。
「だいとかい、ですか。わかりました」
馬締はうなずき、次の瞬間、
「あ~あぁ~!」
素っ頓狂な声を張り上げた。」のです。
そして「はってっし~な~い~」…と続けます。
そう、クリスタルキングの「大都会」を歌い始めたのです(若い人には分からないかもしれませんが…)。それも、相当の音痴で。
言葉と格闘する辞書づくりというと、堅い話と思わわれるかもしれませんが、この馬締くんをはじめ、個性的でちょっと不器用な人々が登場し、馬締くんの恋物語なども織り込まれ、楽しく読めます。
「大渡海」には20万語以上が収録されます。一つ一つの言葉をどう説明し、「どんな情報を、何文字で、どういう体裁で」盛り込むべきか。具体的な言葉を例にとって、格闘する編集者や学者らの編纂の過程が描かれていきます。
私たちも、辞書という舟に乗りながら言葉の海に漕ぎ出し、言葉の奥深さを知り、学んでいくことになります。同時に、辞書の歴史や、実際に出版されている辞書の特徴なども紹介されていて、辞書への愛着も深まります。
ここでも作者の三浦さんはユーモアを交えてくれます。編集部のベテラン・荒木さんと、監修者で国語学者の松本先生が食事をしながら会話する場面のことです。荒木さんは、先生が最初に手にした辞書は何かと聞き、自分は「中学のころの『岩波国語辞典』が最初でしたが、シモがかった言葉を引きまくりましたよ」と話します。
すると松本先生は「しかし、あれはきわめて端正で上品な辞書だ。さぞかしがっかりしたことでしょうね」と言います。すると荒木さんは、「そうそう。『ちんちん』を引いても、語釈には犬の芸と湯の沸く音についてしか載ってない」と応じるのです。私も調べてみたら(第6版)その通りでした。なるほど、岩波らしいですね。
この本の最後では、馬締くんがある女性に宛てた恋文の全文が明らかにされます👇
これがまた彼の性格を表していて、悪いけど笑ってしまいます。彼の恋は、そして「大渡海」はどうなるのか、ぜひお読みください。
最後に、入社してから3年間を女性向けファッション誌の編集部で過ごしながら、辞書編集部に異動になり、次第に辞書づくりの魅力に取りつかれていく女性、岸辺みどりさんについての描写を紹介して、終わりにします。
ー辞書づくりに取り組み、言葉と本気で向き合うようになって、私は少し変わった気がする。岸辺はそう思った。言葉の持つ力。傷つけるためではなく、だれかを守り、だれかに伝え、だれかとつながりあうための力に自覚的になってから、自分の心を探り、周囲のひとの気持ちや考えを注意深く汲み取ろうとするようになった。
岸辺は『大渡海』編纂を通し、言葉という新しい武器を、真実の意味で手に入れようとしているところだった。