「サラダ記念日」で知られる歌人の俵万智さんは、「短歌の上達方法は?」という質問をよくされるそうです。それに対しての答えは明快です。「もちろん早道や抜け道などなくて、地道な継続こそが力なりだ。たくさん読んで、たくさん詠む…シンプルではあるが、これしかない」

そして、「『読む』と『詠む』を続けていくなかで、定型というものが窮屈な制約ではなく、自分の心を盛るのにちょうどいい器として感じられてくることだろう」。「短歌のレシピ」(新潮新書)の、「はじめに」でこう書いています。

継続こそ力なのですね。いい文章を書くにも、文章をいっぱい読む、そして書くことが大事なのだといえそうです。

ただし、「『たくさん詠む』のほうを自己流でやっていると、どうしてもクセがついてしまうことがある」と、俵さんは注意を呼び掛けています。

「多くの人が陥りやすい落とし穴のようなものを知っていれば、無駄な回り道はしなくてすむ」。この本は、「『キケン!こんな落とし穴がありますよ』という落とし穴集のような一面を持っている」といいます。

そして、この本には、もう一つ重要な側面として、「便利!こんなレシピがありますよ」という、レシピ集でもあるといいます。

「表現を実現するための手段は、たくさん持っていたほうがいい。伝えたい思いを料理の素材とするならば、それをどんな調理法で出すのが一番おいしいのか…。なんでも炒めて塩コショウ、というのではつまらない。素材の持ち味を生かすためには、さまざまな道具を持ち、調理法を知っておくことが大切」だからです。

この本では、「添削されてもいいという前提で、季刊誌『考える人』に」寄せてくれた多くの作品が紹介されていて、俵さんによって鑑賞され、添削されています👇

このため、「『短歌は、たった一文字で変わる』とだけ言われても、そんなものかなと思うだけだろう。が、実際に一文字だけ違う短歌を並べてみれば、その言葉の意味がリアルにわかる」のです。

さらには、「私が人のものに手を入れるから『添削』となるが、自分の作品にこれをすることを推敲という。本書を、ぜひみなさん自身の推敲に役立ててもらえたら、と思う。我ながら、かなり踏み込んで手の内を見せたなあというのが、まとめ終えた実感だ」と俵さんは書いています。

俵さんは同じ新潮新書「考える短歌―作る手ほどき、読む技術」のなかで、「短歌は、心と言葉からできている。(中略)心の柔軟体操のほうは、各自でお願いいたします」と書いているそうです。

つまり「他人が手伝えるのは、あくまで言葉の側面だ」というのです。言い方を変えると「『何を』『どう』歌うかで短歌は決まるのだが、本書は『どう』の部分にスポットを当てている。『何を』歌うかは、人それぞれの生き方とさえ言えるので、そこには踏み込めない」と強調しています。

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添削によって、どんな風に変わるのか。それを知りたいという方に、「短歌のレシピ」から一つだけ紹介して、終わりにします。

まず、投稿歌は

「友といた夜の記憶は数枚の絵画見るよう酒は怖いね」 

この歌に対して、俵さんは、
お酒の飲み過ぎで、記憶が断片的にしかない…。その様子が『数枚の絵画を見るよう』という比喩で、うまく表現された。(略)この比喩だけで、『酒の怖さ』はじゅうぶんだろう。作者にしてみれば、結句こそが言いたいことではあるのだろうが、ここまで言われてしまうと『そうですね、確かに酒は怖いですね』で終わってしまう。

ここは絵画をつかった比喩を、最大限に生かすことを考えたい。そのほうが読者の心のなかで、酒の怖さについての想像や連想も、より広がっていくことだろう」、と書いています。

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この添削は、第3講「比喩の出し方に心をくだこう/だめ押しの一歩手前で止めよう」にあるのですが、だめ押しの一歩手前で止めるということについて、俵さんは次のように説明しています。

「感じたこと、思ったことを、的確に伝えることは大切だ。そのために私たちは、さまざまな言葉を動員し、表現に工夫をこらす。が、言い過ぎて逆効果になることがあることも、頭の隅においておきたい。これは、自分が読者になったときの方が、よくわかることもしれない」

さて、添削されてどうなったでしょうか?

「友といた夜の記憶は数枚の酒の匂いの絵画となりぬ」

言い過ぎ、飲みすぎには、くれぐれもご注意を(自戒を込めて…)。

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